世界を疾風怒濤に駆け抜けた覇王ギュスターヴ亡き後、東大陸ロードレスマン地方を統べていたハン・ノヴァ帝国は、儚く音を立てて崩れようとしていた。主によって築き上げられた、難攻不落の礎である鉄の城壁は如何なる攻撃にも耐えたが、内面は薄氷の如く脆かった。以前より懸念されていた後継問題が、顕著となったのである。
軍事において才を発揮したネーベルスタン将軍は病に倒れ既に無く、内政面において偉大な功績を残した財政官ムートン卿も更迭後、間もなく逝去。だが双方とも、肩を並べる程の才を継ぐ者は現れなかった。何より、主君の後継者が不在という点が致命的だった。数多の女性と関係が噂されるも覇王自身に子はおらず、家臣から候補を示すことも終ぞ無かったのだ。
そんな覇王亡き後の座を受け継いだのは義弟にして、旧友であるヤーデ伯爵、ケルヴィンだった。覇王ギュスターヴがヤーデに移住した頃より、父トマスと共に支え続けてきた…友であり、義弟であり、重鎮である彼がその座に就くことは自然な流れとも言えよう。民衆からの反対も無かった。
しかし彼は当初、その位に座することを固辞した。友の死が受け容れられないという理由と、何よりその座に就くべき器ではないことを、彼自身が重々理解していたからだ。それでも彼が最終的にその座に就いたのは、他に候補がいなかったからだとも、主無き帝国が争いを呼ぶ前にという憂慮からだとも言われている。
だが、間もなくしてその座は崩れることとなる。盟約を結ぶ諸侯らは、宿敵であるオート侯カンタールの動きを警戒し、先手を打つべく出兵を要請していた。カンタールは覇王ギュスターヴですらその腕を欲しがる程、政略に関しては上手だった。彼の狡猾さはもはや周知の事実であり、政治家に纏わる黒い噂には必ずオート侯の名が挙がる程だった。
ところが、ケルヴィンはこれに異を唱えて使いを送り続けた。談話の場を設けることを最優先に考え、全面的な戦争を避けたいという、穏健派主義の行動である。ギュスターヴと違い、ケルヴィンは、身も心も貴族であった。貴族の鑑である彼は、政治家にはなりきれなかったのだ。その結果は言うまでも無く、これまで彼の後についていた侯爵は全てカンタールに奪われ、領土もその手中に収まってしまった。
侯爵の多くは、カンタールに先手を打たれて已む無く従っただけであったが、ケルヴィンの貴族たらんとする姿勢に失望し、忠言した者も勢いに乗じて、次第に離反していった。
問題はそれだけでは無かった。後継不在で国務の鞭を取る者がいない為、経済面においては大きく傾いた。公平平等を謳う帝都にも、遂に貧富の格差が生じてしまったのだ。これはかねてより、ムートン卿が更迭されたことで危惧していたものだったが、政治の流れが悪化するにつれてそれは浮き彫りになっていった。
この問題には皆が不眠不休で取り組んでいたが、遂に何の解決も出来ないまま、一年後には退位、帝国を捨てて南大陸のヤーデへ戻ることになる。
「…兄上? 何を読んでいるのですか?」
銀髪の少年は、机に向かって険しい顔をし、何かに読み耽る茶髪の青年に声をかけた。青年はチャールズと言い、少年はフィリップと言った。彼らは同じ父母から生まれた実の兄弟であるが、その位は大きく異なった。特にフィリップはその名と、極秘にフィニー王位継承の儀を成していることから、兄よりも遥かな厚待遇を受けていた。そんな彼らの仲は端から、険悪とも噂されていた。当の本人達よりも、周囲の憶測が険悪に見せかけているだけだと、少なくともフィリップはそう認識しているが。
「ハン・ノヴァの街が朝から騒々しい。
何かと思い、民が注目していた新聞を読んでいた。
お前の好きそうな、くだらん噂が見出しに載っているぞ。」
青年チャールズは険しい顔のまま、少年フィリップに厳しい視線を向ける。それから、自らが読み耽っていた新聞のある一面を指し示した。
くだらん噂と言う割に、チャールズの声は重く、苦々しさすら感じられた。兄の感情に機敏なフィリップは「くだらん噂」で済むものでは無いのだと察して、黙って受け取った新聞の一面を読み…目を見開き、息を大きく飲んだ。
「こ、これは…どういうことですか、兄上!?」
「フィリップ、慎め。声が大きい。」
驚きに思わず声を上げたフィリップは、チャールズに諌められ、声を静めた。次に、見間違いでは無いかと、もう一度その紙面を、ゆっくりと読んだ。
≪――志半ばに散った稀代の風雲児、ギュスターヴ13世の亡霊か?――
東大陸全土を騒がせた覇王、ギュスターヴ13世の死から、凡そ一年の月日が経った。
覇王が建国したハン・ノヴァ帝国は当初、主が公に後継者を指名しないまま急逝したことにより、後継や今後の方針について危惧されていたが、南大陸のヤーデ領主であるケルヴィン伯爵が正式に座を継いだことで、事態は収束したと思われていた。
しかしこの頃、奇妙な噂が巷を騒がせていた。何と、南方の砦で志半ばに散った、そのギュスターヴ13世を目撃したという人物が広域に渡り、多数いると言うのだ。その域はロードレスランド東部・西部、果てには南大陸まで広まっており、一貫して「酒好きで色を好み、豪放磊落、鋼の鎧を身に纏った男性」という特徴が挙がっている。
この特徴は覇王ギュスターヴ13世が生前、自身が築いたハン・ノヴァ帝都の酒場を好んで出入りし、女性と関係を多く持っていた言動と酷似しており、特に術不能である為に全身を鋼の鎧で覆っていた点は有名で、有力かつ信憑性の高い噂であることが判明している。
この件について、ケルヴィン伯爵及びハン・ノヴァ帝国側から正式なコメントは未だに無い。
志半ばにして炎に消えた、ギュスターヴ13世の亡霊か。遺体が見つからなかった為、まことしやかにささやかれていた生存説が有力か。
何れにせよ、表舞台から降りても尚、覇王の名は雲に乗り、風に流れて消えることは無いということだ。
まさに「風雲児」と呼ぶに相応しい稀代の英雄である。
(左記…目撃したという男性が描いた、ギュスターヴ13世と思しき者の横顔。
白いフードを被っていたが、横から僅かに覗いていた整った顔立ちと髪は、生前の覇王と酷似していたと言う。)≫
…フィリップがゆっくりと顔を上げたとき、チャールズは窓の外に目を向けていた。緑萌ゆる景色は心を癒すが、こんなニュースを聞いては居ても立ってもいられないのだろう。そのうち椅子から立ち始め、衛兵を呼びつけて何か告げた後、再び座ったかと思うと難しい顔をして、再び考え込んでいる。
面白い人だと、フィリップは思いながらも同様に焦りを感じていた。こういう話はくだらないと一蹴して終わるチャールズが、伯父のことになると急に浮き足立ってしまう。伯父を敬愛していたのは知っていたが、こうも焦燥を見せるチャールズの姿は始めて目にするものだった。
「兄上…どうなされるおつもりですか?」
「前から噂は持ち上がっていた。
それがこうして出てきたということは、そういうことだ。」
「箝口令でも敷くのですか。
私は、どうやっても回避出来ないと思いますが。」
「馬鹿げたことを言うな。尚更、信憑性を持たせることになる。
連中の思い通りだ。」
では何を、と言いかけて、フィリップは思い留まった。次に、まさかと考えていたことを、恐る恐る口にした。
「まさか、兄上…伯父上を…ギュスターヴ公を捜索なさるのですか!」
「言っただろう、前から噂は持ち上がっていたと。」
「兄上、どうかお考え直しください!」
「遅い。既に行っていたことだ。」
チャールズの軽くあしらう言葉に、フィリップは青ざめた。現在、オート侯カンタールとの和平の場を設ける為、如何なる事由でも出兵は禁じられているのだ。たとえ極秘のものでも、捜索隊は無論、ハン・ノヴァの兵士であろう。諸侯からは再三、カンタールへの出兵が要請されているというのに、そちらには兵を回さず、真偽の分からぬ噂に振り回されて兵を動かしていると諸侯に知られれば、ハン・ノヴァの信用が落ちるだけでなく、業を煮やした諸侯から反乱が起きる可能性もあった。
「…ハン・ノヴァの名を地に落とすつもりですか、兄上!」
「ふん、既に地に落ちたようなものだ。
後一年もすれば、この国は滅びる。」
「兄上…!」
傲岸不遜な態度に辟易していたフィリップが、その不満をぶつけようとしたとき、チャールズの鋭い視線がその顔を捉えた。
「まだわからんのか?
このハン・ノヴァ帝国の座に相応しい人は
ギュスターヴ13世をおいて他にいないのだと!」
握った拳は震え、机に勢いよく振り下ろされた。二人だけの空間に、鈍い音が虚しく響く。
息を飲んだまま動けないフィリップを、チャールズは続けて激しく責め立てる。
「継承したのは王家の名だけか、フィリップ!
お前は伯父上の何を見てきた?
ギュスターヴ公亡き後のハン・ノヴァはどうだ?
政敵が先手を打ち、攻めてくることなど容易に想像出来たものを
暢気に見守って出兵を禁じ、内政にばかり目を向けた末
多くの味方に見限られてこのざまだ!
それを実行したのが…よりにもよって、我らの父上とはな!」
詰るチャールズの形相は、憤怒に満ちていた。怒りだけではない、そこには深い悲哀が表れていた。繁栄から衰退までの呆気なさ、主君不在の落差…敬愛すべきであろう実父への失望と落胆が込められた表情だ。
こうまで感情を露にした兄に、フィリップは返す言葉も無く、今にも泣き出しそうな顔を俯かせるしかなかった。
「お前はどうか知らんが、父上は名ばかり重んじて省みない。
ギュスターヴ公ならばこうしていた、ああしていた…
周囲の者は口を揃えてそう言っているのにだ。
父上は…父上自身が言った通り、あの座に相応しい人ではない。」
「兄上も父上も、伯父上に…ギュスターヴ公に囚われ過ぎです!
確かに、ギュスターヴ公は偉大な方でした。
ですが、あの方が一人いなくなったからといって…
あの方の意思を継ぐのが、今の我々の役目ではありませんか。
だからこそ、あの方は託し、次代へと…」
俯き、涙を抑えきれず言葉が詰まるフィリップを、チャールズは複雑な思いを抱えながら見ていた。弟の言うことは正論だが、だからこそ、根底にある価値観の相違が気に入らなかった。弟は、兄の思う通りの考えを持てなかったのだ。
その父に似た甘い考えに至る原因は、おおよそ見当がついていた。「フィリップ」という名の重さ、過保護とも言える周囲の世話焼き、伯父の寵愛…それら全て、弟のせいではない。悪いのは、他ならぬギュスターヴ13世だ。わかっていたからこそ、直にフィリップを責めたりはしなかった。己の悲しみを慰める為に甥を甘やかし、罪悪感から逃れる為に同名を授け可愛がった…実弟を亡き者に見立てるようなやり方は到底、許されるものではない。今目の前にいる「フィリップ」はある種、伯父の胸中に巣食う亡霊の被害者なのだ。
かといって、伯父が背負っているその悲しみを察していたチャールズは、どうしても伯父を責める気にはなれなかった。僅かながら記憶にある「フィリップ」がどうなったか、彼もまた知っていたからだ。
覇王と呼ばれた伯父を敬愛していたが、人として軽蔑もしていた。だからこそ、その伯父が生きているかもしれないという信憑性の高い噂に、余計に苛立っていた。託したのでは無い、ただ投げただけではないか、と。伯父が生きているという知らせは、フィリップという名を授けた事と同様の逃げとしか思えなかったのだ。
「…フィリップ、考えは同じだ。
仮に、いま生きていたとしても、あの方も、もう良い年だ。次の世代に託す時期だろう。
次代が後を継ぎ、新たなハン・ノヴァ帝国を築き上げていかねばならない。
だが、それが出来る人間は、ここにはいない。」
「だから、ギュスターヴ公を探していると…?」
「そうだ。」
涙に声を震わせながら問うフィリップに、チャールズは答えた。はっと顔を上げ、フィリップはチャールズを改めて見た。
その顔は凛々しく、悲嘆している側近のものとは大違いだ。士気が低下しつつある兵士達とは裏腹に、未だその眼には闘志が宿っている。これが、兄なのだ。野心家などと噂されているが、そうではない。自分が、父が、君主の器ではないと知りながらそれでもなお、落日の危機にある国のため、抗い続ける姿は誰よりも雄々しい。
気丈な兄に羨望の眼差しを向け、フィリップはもう一度、問いかけた。
「兄上…ギュスターヴ公を捜索して、どうなされるのですか。」
「見つからなければそれでいい。
生きていると分かれば何としてでも見つけ…
無理矢理にでも連れて来る。」
「…!」
言い放ち、背を向けたチャールズに、フィリップは息を飲んだまま動けなかった。無理矢理にでも連れて来る…フィリップも、その意味がわからぬ年では無い。この兄のことだ、伯父が見つかったとして、連れて来る為ならば、どんな方法でも使うだろう。そして、父であるケルヴィンを強引にその座から退かせて、ギュスターヴに再び授けるつもりなのだ。
どんなに危険で無謀なことか、兄は分かっているのだろうか。否、分かっているからこそやるのだろう…。
自答して振り向いたときには、既にチャールズの姿は無かった。
「兄上…」
複雑な表情を浮かべたまま、フィリップは扉の向こうを見ていた。
兄は、ギュスターヴ公を敬愛している。だからこそ、その背を追うのだろう。その弟である自分は、どうするのが最善なのか…。
明確な答えが浮かばぬまま、フィリップはチャールズの後を追うように部屋を去った。